育てにくい息子について調べていてギフテッドについて知りました。息子がギフテッドかどうかはさておき、ギフテッドについて調べたことや日常をメモしておこうと思いこのブログをはじめました。


by Michi-mama3

カテゴリ:自己紹介( 9 )



園が始まって、バタバタ動き回り、夜もバタンキューで、ネットから遠ざかってしまっていました。コメントのお返事が遅くなってしまってすみませんでした。??
ミチは睡眠短めでも、“妙に” エネルギッシュなのですが、私はロングスリーパーで、寝ても寝ても寝足りない派。ミチの相手は、ほんと体力勝負です〜。


さて、間が空きましたが、大学時代の自分について振り返ってみたいと思います。(長々と自分語りすみません、振り返り終わったら第二の人生スタート、くらいに思っておりまして…。しばらくお付き合いください。興味のない方は、素通りしてください〜。)


大学は、行きたかったところでもなく浪人するほどでもなくという女子大に入学。そんなでした
ので、大学生活の出だしはテンション低く、女子大の女子らしい雰囲気に違和感を覚えつつスタートしました。

テンション低めではありましたが、ふてくされている場合ではないということで、女子大特有の交流大学が多岐に渡るのを生かし、色んな校風をほんの少しですが、垣間見ることができたのはよかったなあと思います。

ちなみに、当時は女子大生ブームという時代で、キャンキャンなどの雑誌に友達が登場していたり、自分もマイナーな雑誌に載せてもらったりと、それなりに時代を楽しませてもらえたような気もします。

とはいえ、バブルな雰囲気とは馴染めないタイプでもあったため、時代を満喫したのかといえばノーだと思います。正直、今の変化の時期というか先の読めないサバイバル本能かきたてられる
時代の方が性にあっています。


で、大学時代何をしていたのかというと、勉強以外でのメインは、“安全志向” の旅人です。
「必ず無事に帰る」をモットーとして、旅に出ていました。笑

一眼レフが好きで、大きなカメラ片手に、長期で適当にフラフラ北海道や海外に出かけるために学生をしていたようなものです。今でも印象が強いのが、鉄道で横断したオーストラリアと、面白い人との出会いがあったアラスカです。(大自然系が好きです??)

当時は、写真もフィルムだったので、バシバシ写真を撮ると、なかなかお金がかかるものだから、旅行代と写真代のために、せっせとバイトに励んでいました。

バイトは、定期的には、家庭教師と塾講師。単発では、当時花盛りのイベント屋をやっていた知人からいただく、非常に割の良いお仕事などをやっていました。バブルのおかげでバイトも豊富だったのですが、変わり種では、郊外でウィンナーの試食のお姉さんもやり、歩合でもないのに、自分で設定した完売を目標にせっせと働いていました。(完売させることもあったのですが、達成感で帰りの長距離電車で1人喜びを味わっていました。今思えば、なんて良いバイトちゃんだったんでしょう、笑)

一応恋愛もしていましたが、今思うに、あれはデートということであちこちに出かけたかっただけだったのでは?(バブルだったしね~)、というようなところもあります。お付き合いしていた人が硬派なミーハーだったおかげで、ずいぶん渋カジ時代(知らない人も多いですよね?)の渋谷を謳歌&満喫できました。


さて、本来のメインである学業の方ですが、1~2年生は、教養課程で、全くもってつまらなく、興味のあった「女性学」以外は、かなり適当にこなしていたために、ギリギリの成績でした。つまり、ほとんどがCで、女性学だけA+(苦笑)。試験に寝坊して単位を落としたものもあります…。

3年生になると、状況が一変。専門過程になって俄然やる気が出てきたのでした。
心理学を専攻していたのですが、発達心理学や、性格検査法、実験なんかは大好きで、A+。統計学だけは、高校時代の数学授業で発症したギリシャ文字アレルギーにより、全く活力が湧かずにC。(先生もよく私に単位をくださったと思います。)

ゼミは、先生が好きだからという理由もあって、臨床心理だったのですが、卒論は、臨床でも何でもなく、思いついたテーマと仮説が、質問紙法で統計処理して考察するものでした。とても楽しくやる気満々で論文を書いていたものの、性格的に苦戦したのがデータ入力でした。
(学生時代、近所のヤマト運輸のデータ入力のバイトもクビになるくらいデータ入力が苦手でして…)

まあ、当時のコンピュータが画面の黒いやつ(DOSっていうんですか?)で、テンキーを使わずにせっせと数字を0〜5まで入力して、さあ、全部入力したぞ、どんな結果が出るかな?と思ったらエラー。
理由が、ゼロとアルファベットのOを打ち間違えていたところが何箇所もあったという、残念な仕事ぶりでした、苦笑。

ちなみに、似たような私の凹が原因で、ヤマト運輸の他にもクビになったバイトがあって、塾のテキストの校正バイト、都市計画の研究室の土地の使用率を算出するために、建物の角をマウスでクリックするバイトは、ダメでした。(使えない迷惑なバイトちゃんでした…)

バイトの話の流れで言うと、家庭教師と塾講師は、まずまず得意。子供達のために手作りプリントを作るのが好きで、自腹でコピーして配ったりもしていました。特に勉強の苦手な小学生を教えるのが好きで、ぐにょぐにょ座っていられずに鏡文字を書く子も受け持ったのですが、当時は体力もあったので、なんとか座らせ、勉強を少しでも好きにさせて、成績が毎回上がっていったのは、今もよく覚えています。それくらい楽しく達成感がありました。


話を学業に戻すと、受かったから入学したという大学ではありましたが、心理学を専攻できたのは、とても良かったと思います。そのおかげで、大学時代の後半は、学業が楽しいという気持ちでいっぱいでした。
友達の中では、社会人になってから、大学院に通って、臨床心理士になった仲間もいて、私は性に合わないけれども、今でも臨床心理士への憧れが今でもあります。なので、ミチの相談に行っても、「先生、楽しそうだなあ。先生ともっと話してみたいなあ。」という、気持ちも湧いてきたりなんかします。??

何度か、大学院に行こうかなと思って、実際に動いたことはあるのですが、結局タイミング合わずなので、きっと大学院は私の人生の道にはないんだろうとも思っています。


恵まれた時代の大学生で、なおかつ、マスメディアの感覚の近い都心にいたこともあり、時代は自分達が動かしているように錯覚できました。こんな錯覚は、良し悪しではありますが、変に自信が持てたことは、その後自分で仕事をする時に積極的になれた理由でもある気がするので、ある意味良かったのではないかなと思っています。

ダラダラと長く思いつくままに書きましたが、就職に向けてと日々の生活態度についてなど、またしつこく振り返って書いてみたいと思います。


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by Michi-mama3 | 2014-01-19 01:10 | 自己紹介


自分の振り返りを年内に終えようと思っていたのに、日々の生活にアタフタ。とても年内には終わりません。子育て中の身には、自分について振り返るなんて贅沢な時間の使い方なのね、ということに、今さら気づいています。


さて、高校時代について振り返りの続きです。

高校時代は、私の人生での闇の時代でして、特に後半は、くすぶり感と自殺願望が支配していました。なぜ私はこんなに否定的な気分に支配されたのかについて、子育ての合間に考えてみました。


私の通った高校は、入学時にはかなり勉強の成績の良い女子が集まる高校だったのですが、卒業後の進路が、東大に毎年一桁しか進学しないという特徴があります。
この高校と対になっている男子校(入学時の成績はほぼ同じ)、東大は毎年30~40人くらい進学しているのにもかかわらずです。

この学校は、ある意味一地方の公立校です。「女は勉強が出来すぎないほうが良い」という価値観が、生徒にも先生にもありました。(こんな価値観、今はなくなっていると良いのですが、進学実績を見ると相変わらずのような気がします。文化は変わらないですね。)

学校内でも、この学校の卒業生は結婚なかなかできないらしいなどと噂したり、この学校に入学するとモテないと嘆き合ったり、この手の話題は日常でした。対になっている男子校での、やっぱこの高校に入ったら東大目指すでしょ、という雰囲気との差は歴然です。

卒業アルバムを誰に見せても、案外美人が多いね、と、言ってもらえる同級生達ですが、うら若き乙女のこと、素敵な男子からどこの高校?と聞かれて、学校名を答えると、「ヘェ~頭いいんだ~…」で、終わってしまうという悲しい経験を幾度か重ね、2年生にもなると、頭の良さを隠す受け答えも上手くなり、東大なんかに行ったら、もっとモテなくなるなと確信するという有様でした。
(ちなみに東大に固執しているわけではなく、女子の能力隠しの具体例として東大を例にあげてみました。)


私自身の進学に対する考えはどうだったかというと、将来の仕事のために学校を選びたいという気持ちが強く、世の中にどんな仕事があるのか、親と話すだけでは種類がかなり限定されていて、よく分からず、図書館で色々な職業とその道に進むための情報を得ようとしたものの私の求める情報は得られず、路頭に迷った気分でした。

なので、漠然と、国際関係(当時の流行りですね)か、心理学(ただ単にお遊び心理テストが好きだったから)で、受験して、受かったところに行ってから考えよう、という、自分の本意ではない受験校選びで、こんな将来への目標のない受験に意味があるのだろうか、という気持ちが強かったです。

ただ流れで受験するだけですので、モチベーションないと全くやる気の起きない性格の私には、受験勉強は苦痛以外のなにものでもありませんでした。(世界史の資料集を眺めては、時空旅行にでかけ、ハッと気がつけば1時間という毎日、苦笑。)


精神的に一番悪影響だったのが、母との口喧嘩の日々でした。今ではすっかり過疎地になってしまった片田舎出身の母ですが、彼女は、「女性は良妻賢母系の短大を出て、一部上場企業に就職し、かわいくお茶汲みして、ナイスガイと結婚するのが幸せの王道だ」と信じていて、私がそこそこの高校に入学した時点で、私への勉強のサポートは終了。この高校入ったのだから、放っておいても、まあ名の知れた短大くらいには行けるだろうと、考えていました。

大学は短大にしか行かせるつもりはないから、学費は2年分しか出さない。4年生の大学に行きたければ、残りの2年分は自分で稼いで払いなさい。と言われ、予備校にも通わず、エアコンもつけてもらえず、勉強しなくて良いから家のことを手伝えと口うるさく言われる毎日でした。


父はまだ少しは話が通じて、受験が本格的になる前、私が外交官とか国連とか興味があるなあ、どんな仕事なのかなあと、話せば、会話が多少続くようなところはありました。
が、いかんせん、当時単身赴任中だったのに加えて、バブルで自分事に忙しかったのと、私の興味のあるような堅めも職種にまったく明るくないのと、やはり根のところで、父もいわゆるお嬢さん然とした人生を送って欲しいと思っていたであろうということで、中身のある話はたいしてできませんでした。

まあ、どう見ても、私は霞が関タイプではないので、父もたいして真剣に受け止めなかったのかもしれませんが、それでも、ちょっと霞が関に連れていくとか、JICAに連れていくとか、社会人のイメージを広げる機会をつくるとか思いついて欲しかったなあと思います。母にいたっては、当時外務省に世界を飛び回る知り合いがいたのだから、そんな人の話を聞かせて欲しかったなあと思います。(バブル真っ盛りだったので、この頃の親は子の人生すらも楽観していたのでしょうか?)


今振り返っても、私が娘(女性)であるという理由で、進路について手抜きしたのは明らかです。当時はそこまではっきりと分からなかったものだから、自分の価値を女性という理由で親からも、低く見積もられたのが、とても苦しくて、自己否定的になっていきました。(当時は女性という理由とまではっきり分かってはいませんでしたが、感じてはいました。)


思春期にありがちなのかもしれませんが、「自分には生きる価値がない」という思いが強くあり、死について真剣に考えたのです。自分を殺めるということは、人間にしかできない高度なもので、尊厳的なことなのではないだろうか、と思ったりもしていました。
(ちなみに、すぐに“死のう”と思うのは、この頃から始まって、母を完全に見切って本当の親離れをする20歳代終わりまで続きます。)

激しい反抗と自己否定の中で、自分を殺めることがなかったのは、好奇心が優っていたからで、「まだまだ色んな経験をしてみたいから、今死ぬのはよそう。」という結構単純な理由からでした。

中学時代は、勉強が楽しくて一番の趣味であることを先生から理解されずに落ち込み、高校時代は、女性であるがゆえに誰も自分に勉強を頑張れ!とエールを送ってくれなくなったことに落ち込み…、といったところでしょうか。


同様の悩みを持っていた同級生はそこそこいたのではないかと思います。卒業式になぜか欠席してその後音信不通になった友達、拒食症が進む一方だった友達、短大進学後自殺してしまった友達、旅に出たまま行方不明になった友達(親友のひとり)…。

もし娘がいて、自分と似ていた場合、この高校は勧めません。都内の国立の共学高校か共学の大学の付属高校を勧めると思います。(共学にこだわるのは、社会に出た後、自営っであったり、フリーランスで仕事をする場合、男子とのネットワークの方が使えるからです。)


最後に、ピアノです。中学に入学と同時にやめたピアノですが、急にリストの「愛の夢」を弾けるようになりたくて、1年間だけ復活しました。この時は良い先生に恵まれ、バーナムからやり直し、音の表情についての指導もしてもらえて、楽しくレッスンが進みました。


それにしても、振り返って気づいたのは、高校時代に女性としてかわいがられるための仮面をかぶるように、親からも環境からも、刷り込まれたのだなあということです。


なんか暗い記事になってしまいましたね…。本人的には一つ殻を脱いだような自分についての理解が深まったような気分です。次は大学時代について振り返りたいと思っています。??


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by Michi-mama3 | 2013-12-19 22:57 | 自己紹介
子供を育てるということをきっかけに、だらだらと自分について振り返っています。40過ぎての振り返りは、思ったよりもこれからの人生を明確にしてくれそうな予感です。(たぶん)


さて、今回は高校時代について振り返ってみようと思います。

中学時代は、勉強が楽しくてしょうがなく成績が良かったというのと、自分と話が会う人と出会えるだろうという期待をもって、当時の県内トップの女子高に入学しました。

さて、楽しいはずの高校時代でしたが、今までの人生の中では谷の時期だった気がします。というのも、生徒達は話が合うし、頭脳明晰、実行力抜群、他人を気にせず行動するユニークな子達が多く面白かったのですが、肝心な授業が面白くなかったのです。(くわえて、3年生のころは、母親との喧嘩に明け暮れていたことと、大学入試のストレスでボロボロでした〜。)


県内トップの公立“女子高”ということで、引退したようなおじいちゃんおばあちゃん先生がラクをしに来ているとの噂でした。この女子高とペアとなっている男子校があるのですが、こちらは授業がもっと充実しているらしいという噂もありました。(本当かどうかは知りませんが)

いずれにせよ、先生がラクしているのに乗じて、生徒も授業を軽んじるという雰囲気満載、私としては、今ひとつ学業への気持ちが盛り上がりませんでした。将来どうしたいという目標がなかったというのも良くなかったのだろうと思います。
結局、入学時は比較的成績上位にいたのですが、ずるずると下位に落ち、常に平均より下のグループにいて、なんとなく学校に通う毎日でした。


今でも記憶にある授業をいくつか書き出してみようと思います。

何と言っても鮮明に覚えているのは、高校1年生初め頃の数学の授業です。東大数学科卒で、前年までそのペアとなっている男子校(東大、東工大に行く生徒が多い)で教鞭を執っていた先生が、この女子高の生徒達もその男子校と同じように数学愛のある生徒なのだろうと思って、黒板に白いチョークで大きく i とだけ書き、『虚数』について1時間熱く語ってくださったことがありました。私はこの1時間で、「数学は私の世界ではないのね」と確信。数学にさようならを告げました。

それまでは数学がパズルのようで好きだったのですが、数学とはパズルではなく哲学なのだなと…。(まるで、愛しい恋人が、実はやんごとない家柄のために実らない恋と知った時のような悲しさです。)ちなみに、翌年からこの先生は、もっと手加減して数学を教えるようになったとのことです。


次に生物です。先生のお気に入りの宿題が、ケント紙に点々で絵を描く(細胞の絵とか)というやつで、点々が細かく丁寧なほど評価が高いというものでした。私には全くその重要性が分からないし、面倒なだけの宿題なので、先生の先生としての資質まで疑ったのでした。そして、この生物の先生の出した定期試験問題で、資料集のページの下にゴマ粒のような小さい字で書いてある豆知識の穴埋め問題が出た時に、すっかり生物についてのやる気が失せたのでした。今この文章を書きながら。本当は高校の生物の授業ってどんなことをやるのかしら?と、思ってしまいました、苦笑。それくらい、授業に身が入っていませんでした。プラナリアのことくらいしか思い出せません、笑。


そして、英語。当時の英語の先生ですが、この高校の大大先輩で、いつも「私のいた頃はこんなに風紀が乱れていなかった」と、いうようなことをおっしゃっていて、授業内容よりも、口うるさいなあということばかりに気を取られていました、苦笑。また、定期試験問題で、教科書まんまの穴埋め問題が多かったことが嫌で、このテストのための試験勉強に意味があるのかしら?とか思い始めて、身が入りませんでした。英語自体には興味はあるものの高校英語の勉強は全くやる気なしで、ただただ苦痛でした。


意外や意外、物理はまあまあ好きでした。事象を科学する面白さを熱心に伝えようとする若い先生でした。私はこの先生の授業が好きで、この先生の物理はそこそこの成績をとっていたのですが、本気で理系進学を目指している人にとっては、この先生の授業は大学入試に結びつかないとして不人気でした。なので、私は本当には物理の成績は良くないんだろうと思います。笑


現代文の先生は、この学校の先生とは思えないくらい抜群の授業をしてくださいました??✨。教科書を読み進めながら、とても速いテンポで、的を得た質問をどんどんしてくれるので、頭を回転させるのが心地よく、授業が終わるのもあっという間、ちょっとした運動後のような爽快感がありました。おかげで、現代文だけは、大学入試でもラクラクでした。
中学まで国語が苦手だったのに、現代文の成績が良くなったのは、論説文が中心になったというのもあると思います。つまり、作者がどう思ったか、というようなモヤモヤした設問がなくなったのが私には良かったんだと思います。


美術も自由にさせてくれる良い先生でした??。彫刻や粘土はない、絵画一本の先生でしたが、多様な画材を使えたのが楽しかったです。私のお気に入りは日本画で、岩絵の具がグッときました。本当は美大とか憧れでした。今でも機会があれば、岩絵の具とかアクリル(使ってみたことがない)とかで遊んでみたいです。(アート系の趣味は、私に片付け能力がないのがネックで封印です。アトリエとか言っちゃって、一部屋あると素敵ですよね〜??)


また、授業ではないのですが、部活で音楽をしていました。毎年コンクールで入賞する部でした。私が1年生の時は全国大会2位。素晴らしいと思います。でも当時の私ときたら…。
1位じゃないと嬉しくない、仲間が2位で涙を流し抱き合って喜んでいる輪に入れず(一緒に悔しがる人がいなかった)がっくり。そして、やる気ダウン。(今思うと、超完璧主義ですね。当時の私に説教してやりたくなります。)
そして、テレビだの舞台だの一通り経験し、バーンアウト。満足して退部してしまいました。


ところで、文化祭が盛り上がる学校だったのですが、学業とは一転、こういう時には大乗り気でした。実行委員などというしっかりさん部門ではなく(こういう部門の適任者がゴロゴロいる学校だったので)、クラスの催し物の企画で活躍。神が降りてきたかのようにアイデアが湧き、企画実行、参謀的に指揮を執り(表に出るリーダータイプはわんさかいるので、私は二番手)、当日の賑わいに大満足という具合でした。今思うには、みんなが優秀だったから、私があれやこれや思いついただけで、私が思っていた以上のクオリティの高いものに仕上がったんだと思います。

残念ながら高校を卒業してからは、このようなテキパキ集団(一を言うだけで十動くというか、自分で考えて動ける人の集まり)に属したことがありません。社会人になってからは、何かを形にする際に考えがスッキリ伝わらなかったり、人間関係に苦しむという経験をたくさんたくさんしています。(言葉が足らない、皆があなたみたいにはできないのだ、とよく言われます。でもどうしたら良いのか分からないのです。)

高校時代にもっとしっかり目標もって勉強して他の大学に行けば違ったのでしょうか。就職先の選び方がまずかったのでしょうか。それともやっぱり自分を変えるしかないのでしょうか。
物事がスムーズに進んだ高校時代が懐かしいです。(懐かしいどころか、恋しいです。)


ついでに、他にも、この学校の生徒達の様子で、気に入っていたことも挙げておこうと思います。

生徒会が活発で、校則を変えるための議論などを全校生徒を巻き込んで行っていたこと。現実に即さないルールを変えようと普通にサクサク動いているのが気に入っていました。

他人のことに気を取られて時間を無駄にする生徒がいないこと。何かの誘いも、自己判断で断る時は断るし、断られても何も気にしない。嫉妬という感情を持つ人に(たまたまかもしれないけれど)出会わなかった。自分のやるべきことを分かっている人の集まりだった。

といったところでしょうか。

今振り返ると、私の人生において、人間関係のストレスは一切ないという稀有な環境でした。なので、仲間といる時間、居心地自体はとても良かったです。


ざっと、高校生活を中心に書きましたが、書いておきたいことがまだまだあります。思春期の内面的なこと、大学入試勉強のことなど書くと長くなってしまうので、とりあえず、今回はここまでにしておこうと思います。??


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by Michi-mama3 | 2013-11-25 23:42 | 自己紹介

間が空きましたが、自分についての振り返りの続きを書いておこうと思います。

今回は、小学6年生途中から、中学時代を振り返ってみます。

荒れた校区から、越した先は、関東のモデル校。修学旅行も終えたあと、卒業式までと短い期間でした。この学校は、当時の郊外にしては、中学受験など進学に熱心な家庭が多かったような気がします。

暇そうに遊び相手を探していた私は、塾通いに熱心なお母さんから、ちょっと鬱陶しがられていた記憶もあります。それでも、クラブ活動を通じて友達ができ、楽しくやっていました。

卒業アルバムのクラスのページでは、色んな “ベスト3” を取り上げていて(ザ・ベストテン!の真似ですね。)、その中で、「理屈っぽい」というのにランクインしてしまいました。女子として、可愛くない項目にランクインしたのは、非常に不本意でしたが、弁が立つ男のクラスメートと毎日あれやこれや言いあっていたので、こうなってしまったのだと思います。(男子と言い合う傾向はずっと続き、思春期以降は「女のくせに」と嫌われることも。)

この学校の卒業までの間に、両親は、隣の市に家を買ったので、中学は他の校区に移ることになります。(その後、父は単身赴任を重ねることになります。)


環境に無頓着だった両親が選んだのは、進学熱心なご家庭の多い市にあって、比較的勉強に不熱心な学区でした。そのおかげで、私は自分が勉強ができるという錯覚を起こし、勉強が楽しくなり、中学時代は極めて成績優秀でした。こんなに成績が良かったのは、後にも先にも、この中学3年間だけです。

算数は苦手だったのに数学が楽しくなったのには自分もビックリ。大きな桁の計算ドリルから解放されたのと、方程式が性に合っていたんだと思います。図形の証明問題も、パズルを解くみたいに楽しいので、自ら難問に臨んでいました。一番苦労していたのは、社会、特に年号やカタカナの言葉の暗記です。今でも、数字や表音文字は頭に残りません~。


中学時代の美術の先生は、彫刻が専門で(しかも高校の先輩にあたります)、デッサン、エッチング、彫刻が多かったのですが、これは私にフィットしていて、没頭、満喫でき、美術がますます好きになりました。

音楽の先生は、気の合わない先生でしたが、ベートーヴェンの交響曲のスコアを見ながら聞くという授業は、面白かったです。

あ、体育はずっと2でした。チーム球技が好きな中学で、ボールを最後まで目で追えない私は、みんなに謝ってばかりでした。マラソン大会も苦痛でした〜。不良達が体育祭に燃えるのも、超迷惑でした、笑。

この頃は、同級生と社交はするものの、心から打ち解けられる友達はほとんどゼロ。「私は一匹狼だ」と、思っていました。

素直な子が多い学校ではありましたが、いわゆる良くない学校だったので、全般的に公共モラルが低く、家では文句タラタラ、「みんな私みたいな人だったらいいのに!」と、本気で吠えていて、父から、「色んな人がいるから世界は楽しいんだ。」と、諭されていました。

歴史の授業で、狂歌「白河の清き川に住みかねてもとのにごりの田沼恋しき」を知れば、「田沼が恋しいだと? 清い川に住めないようなヤツはいない方がマシだ!」と、心底思い、家でも熱く語っていました。。(この極端さは20代半ばまで続きますが、今は正義感や熱さはなくなり、どちらかというと厭世的になりがちです。)

そういえば、中学2年生の時の担任は、私には学校&授業がつまないだろうと、わざわざ放課後に教科書を先に進める授業をしてくれていました。今思うととてもありがたいです。

休み時間は、素直系の不良達に勉強を教えたり、職員室に質問を携えて遊びに行っていました。(職員室にいる時間が長かったです。)
先生達からは、「ミチヨが職員室に入ってくるとどんな質問されるのかとドキドキする。」と、言われていました。正直な気持ちだったのでしょうが、先生にはそんなこと言って欲しくなかったです〜。やっぱり先生にはどんどんハードルをあげていって欲しかったなと当時も今振振り返っても思います。


中学校での交友関係がとても物足りないせいで、学校を越えた好奇心満たせる交流があれば良いのにとも思っていました。地元で難しいとされる高校に行けば、この願いも叶うに違いないというのが、受験勉強の大きなモチベーションでもありました。

それと、運動ができるのは、誰からも大いに賞賛されるのに、勉強ができることは、逆にカッコ悪い風潮があること、女子ならなおさら、と、いうところにかなり不満を持っていました。
(好きな男子でもいれば、たまには猫かぶって勉強できないフリでもしたのでしょうが、「優秀な子が集まる高校に行けば、様々な不満が解決されるはず」と思っていたので、逆に受験向けの勉強に燃えました。)

また、相変わらずケアレスミスは、目立っていて、先生に首を傾げれることしきり。特に、力を抜いたテストでのケアレスミスがひどく、ア、イ、ウの選択肢に対して、イ、ロ、ハで答えたり…。苦笑


中学時代は、地元の進学塾に、日曜日の午前中に通っていました。平日は部活動以外に用事はなかったので、とてものんびりしていたと思います。それでも、放課後に同じ学校の子と遊ぶことはあまりなく、試験勉強のない日は、家に帰って、自分の部屋で寝っ転がったりして、ぼーっとした後、本を読んだり、家事で忙しい母相手にどうでもいいことをしゃべりまくったりして、テレビを見て、宿題、夕食、お風呂、寝る、といった毎日でした。


そして、高校受験なのですが、当時はこの地区は公立が人気だったので、公立高校が第一志望。
内申書関係なく一発勝負で、ケアレスミスなければ、満点もありえるというタイプの試験問題で、毎回ほぼ満点とれるのが快感で試験勉強をしていました。これが、高校からの伸び悩みの原因の一つかもしれないなと今になって思います。


あと、中学時代で、忘れられない担任の先生からの言葉があります。
家庭訪問で、「ミチヨさんは遊ばないので、心配です。」と。まともな大人になれないんじゃないかというニュアンスでした。
そこで先生に、「そんな先生、ジグソーパズルとかやってますよぉ~。」と、言ったら、「そういうのは遊びとはいわなくて…、苦笑。」と言われたのが、けっこう残っています。同級生から疎外感あるのは構わなかったのですが、先生からそう言われるのは、まあまあインパクトありました。

両親も、「私達の子なのに、こんなに勉強が好きなんて、おかしい、突然変異だ。」とか言っていましたが、う~ん、そうじゃなくって、もっと励ます言葉があったでしょうに、と、子を持つ今思います。(両親は褒めてるつもりで言っていたのでしょうが、やっぱり子供としては、「こんなに頑張って、さすが自分達の子だ」という褒め方の方が嬉しいです。)


ちなみに、中学時代の習い事は、日曜日の塾だけです。ピアノは中学に上がったのを機に、辞めました。辞めて清々したのですが、こんなに嫌いになるなんて…です。この時、ピアノは音楽ではなく、毎日コツコツ練習するという根性を鍛えるための習い事になっていたんだと思います。


最後に、高校入試なのですが、本命の公立高校発表のときに、家族みんなで見に行こう!と提案する両親に、「私は一人で見に行って、合格したよ、って、電話するのを夢見て勉強してきたんだから、ついてきて欲しくない!」と、言ったのに、祭り気分の両親は自分は行きたいと言い張り、「なら、私は行かない!家にいる!」と、ごねた私。
ええ、両親は、まんまと私を置いて、弟と発表を見に行ってました。合格だったのですが、このことがずっと消化不良気分で、スッキリしませんでした。やりきった感がないというか…。今思い出しても、消化不良気分です。

そんな、勉強大好きな中学時代でしたが、高校に上がってからはかなり低迷します〜。


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by Michi-mama3 | 2013-10-28 22:54 | 自己紹介
大好きで尊敬しているあーちゃんママさんが、ギフカテからいなくなってしまい、驚きました。

軸を失ってしまったような気持ちです。でも、あーちゃんママさんのギフカテ抜ける理由を書かれたブログから、ギフテッドの子供達とその親御さんへの深い愛情を感じ、頑張ろうという気持ちも湧いてきました。本当にありがとうございます。

そして、あーちゃんママさんの器の大きさと判断の早さが、これまたカッコいいなあと尊敬。あーちゃんママさんのブログの客観的でバランスのとれた文章は、知性を感じ、気持ちが良くなります。大好きです。これからも、あーちゃんブログ訪れます!(ミチにミルクをあげていた頃、あーちゃんの年の辰年くらいからのファンです??)


☆☆☆

今回のブログでは、小学生高学年時代について、文章にしてみようと思います。

父の転勤にともない、小学3年生の1月に、関東から関西に引越し、転校しました。
かなりガラの悪い地域の小学校への転校。しかも、横浜銀蝿が流行っていた時代で(古いですね。笑)、この校区の中学校は不良満載&事件満載という環境でした。でも、大規模社宅に住んでいたので、近所の遊び友達は、自分と同じように転校を重ねていて、気の合う仲間がいる安心感もありました。

転入してすぐは、関東弁の私は「こいつなまっとるぅ~」ということで、いじめられました。とはいえ、大したイジメではなく、無視するとか、いちいちイチャモンつけてくるといったレベルではありました。

この学校への転校とイジメをきっかけに、関東でボーッと過ごしていた私の目が覚めたようなところがあります。人間について真剣に考えるようになりました。イジメの派閥もあるような学校で、生き延びるために目覚めざるを得なかったというところでしょうか、苦笑。

クラス替えもある4年生への進級。生き延びるためにどうしたら良いかと、人気者を観察しました。私の出した結論が、「みんなを笑わせれば、人気者になれる」でした。関西でしたので、笑。
一方、イジメグループと一線を引くために「清く正しく、自分を持つ」といった態度も身につけました。(“清く正しく”は強さでもあると思っていました。)

時は漫才ブーム。小学4年生から、休み時間の度に、みんなを笑わせるエンターテインもできるようになりました。人格激変です。「ミチヨちゃん、漫才師になったらええのんとちゃう?」と言われるまでに、成長(?)しました。

くわえて、この学校は日教組バリバリの学校で、競争はNG。運動会で勝ち負けはなし、通知表は、たったの2段階評価でした。ということで、すべての評価が「できる」となることもあったりして、自分は優秀なんじゃないかと勘違いできたのはラッキーでした。(勉強へのモチベーションがあがってきました。しかし、競争大好きの私には、ここの運動会は衝撃的でした。)

子供ながらに、日教組教育には、ツッコミどころ満載だなとは思っていましたが、そんな中で、私にとって良かったことが一つありました。

それは理科の授業の進め方なのですが、

①皆で意見を出し複数の仮説をたてる
②自分の支持する仮説が正しいと思う理由を出し合う
③皆の考えを聞いた後に再度支持する仮説を決める

というもの。

これが私にフィットして、超イキイキ。仮説を出し、支持する理由を述べ、正解した後の「やった~!」という達成感。これはノビノビ楽しかったです。

算数もノビノビとオリジナルの解き方をしたりしたのですが、「このようにも解けますが、まだ習わない解き方なので、今習っている方法で解きましょう。」と言われたのを機に、算数はやる気が失せたのも覚えています。それまでも、解法を書くのはめんどくさい、答えが合ってるんだからいいじゃん、計算ドリルも面倒だし、大きい桁の割り算なんて、めんどくさいはケアレスミスで余りがないはずの問題でも余りが出るはで、大嫌い。と、算数には苦手意識がありました。

(こうやって書くと、めんどくさいことが大嫌いなのは子供の頃からだと気づきました。めんどくさがりは、今も変わりません。乳児期の育児は苦痛でした…。ボタンが何個あるんだこの服は!みたいな…。苦笑)


また、この頃、それなりに哲学していて、「大衆は流されやすい。多数決で決まることは、大抵不正解だ。」「人を扇動するのは案外簡単だ。」「言葉には力がある。」などと考えていたのを覚えています。

委員を務めたり、リーダーにもなりました。そういえば、この学校でも、不登校児や知的に支援の必要なクラスメートのサポート役を先生に頼まれていました。


家では以前に増して空想少女。父がSF好きで、自宅にSFの本が大量にあったこともあり、小松左京や星新一など、とっつきやすいものを読みまくっていました。そのせいか、SF的空想が多かったです。階段の途中に座って考え事をするのも好きで、気がつくと1時間くらい同じ場所にいたということもありました。

気がつくと1時間、と言えば、宿題の漢字練習や計算ドリルなど、めんどくさい宿題は、どうにか簡単にできる方法はないかと考えて、1時間くらいあっという間に過ぎ、そんな方法はないから、結局後回しにして、寝る前に泣きながらやったりしていました。

こんなでしたから、はたからみると、何もしないで止まっている時間が長い子だったんじゃないかと思います。笑 (だから母はイライラしていたんですかねえ)


そして、忘れ物も多かったです。しっかり者のイメージなので、忘れ物を取り締まる役を仰せつかったりしたのですが、その私が「忘れ物一位」になるという、先生には残念、クラスのみんなは大喜び、といったこともありました。ちなみに、一番大きな忘れ物は、ランドセルです。(傘だけ持って楽しく登校しました。)


ピアノは、とうとう本格的におもしろくなくなって、適当にしか練習せず、やり過ごしていました。発表会の曲だけ、やる気を出すものだから、先生が思っていたよりもずっと早く弾けるようになり、曲目を追加することになることも。次の発表会には◯◯を弾きたいから、そのためにこの練習をしましょう、という風にレッスンを進めてくれたら良いのに、と思っていました。


そういえば、この頃は、母が怖かったのを覚えています。きっと、色々しつけ、矯正したかったんだと思います。基本的には、言ってもなかなかやらない、口ごたえが過ぎる、お姉ちゃんなんだから弟に譲れ、というところではないかと思います。毎日叱られて泣いていました。(負けず嫌いの泣き方です。泣きすぎて「息ができない死ぬ!」と泣いていました、苦笑。ミチが同じ系統です…。)
この頃、父は私の味方で、褒めて育てる方式だったのですが、母は、父が甘やかすからますますいうことを聞かないと怒っていたのも覚えています。


***
振り返れば振り返るほど、ミチが私と似たタイプなので、今後の自分のためにも、母がどう言えば私は“良い子”だったのか考えてみるとします。

う~ん、私は、言うことをきいていないつもりはなく、言うことを聞く気はあったと思います。たぶん。やっぱり褒められたいし、良い子だと思われたかったので。

きっと、「自分のペース&自分のやり方で“やってみたい”から放っておいてくれ」といったところでしょうか。先回りして欲しくなくて、失敗も含めて経験してみたいというか…。あと、命令されたくないというか…。(面倒なやっちゃ、ですね~)

となると、問答形式ですかねえ。時間かかるし、頭使うし、親はしんどいですね~。

そう思うと、母がブチ切れていたのも分からなくはありません。愛があるほど、ブチ切れ頻度が上がりますものねえ。これを書きながら、「必死に真っ当な人間に育てようとしてくれてありがとう、お母さん」と、思いました。あとで、母にメールでも入れておくとします。
***


この時期、もっとこうして欲しかったなあ、というのがあるとすれば、色んな知識を吸収する機会がもっと欲しかったなあというのがあります。手元の百科事典は愛読していましたが、おもしろ実用書的なものがもっと家にあったらかなり楽しめたと思います。(エリンさんのモモちゃんが理想の環境です!)

母が、買い与えてくれたのは、文学小説と伝記で、どっちも興味がなかったのです。こういった大人が読ませたい系の本が嫌いなので、自分は読書が嫌いなのだと思っていました。(伝記に関しては、読むのが嫌いなくせに、自分も伝記になるような人になろうと本気で思っていました。どうやったら伝記になるのか研究するという目的で伝記を読んだり。苦笑)

小説も読むのは嫌いなわりに、空想家ではあるので、交換日記のように物語を書いたり漫画を描いたりする仲間を募って、楽しんでいました。


また、この頃、英語を習っていたのですが、できない子に合わせるものだから、先に進まず、残念に思っていたのを覚えています。「学校の先生も英語の先生も、覚えの遅い子の方がかわいいんだ。早い子は、かまってもらえないし、損。さみしいなあ。」と、いったところです。


この校区は、恐ろしい中学だったので、中学受験したいと母に言ってみたものの、相手にされず、塾にも通っていませんでした。小学6年生になって、関東に転校が決まった時には、愉快な友達と離れるのは淋しいけれど、命拾いしたと心底ホッとしたものでした。


高学年ともなると記憶がたくさんあるので、色んなことが走馬灯のように思い出されます。
毎日、死ぬとか言いながら泣いていたからか、生き延びることに必死だったからか、虚弱体質風でした。副鼻腔炎、しもやけ、便秘、と、全体的に滞ってました。中医学でいうところの瘀血ってやつなのかな?

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by Michi-mama3 | 2013-10-19 21:37 | 自己紹介

今度は、小学生時代について思い出したことを文章にしてみようと思います。低学年と高学年では、環境も自分自身の意識も変わり、小学校6年間全部書くと長くなりそうなので、今回は、低学年時代についてです。

とにかく、運動神経悪く、ボーッとして、行動も遅く、マイペースでした。

勉強の成績は際立っておらず、ごく普通。コメント欄には、「ボーッとしている時が多いので、もっと授業に集中しましょう」というのが、決まり文句のように書かれていました。(産後、実家で母がとっておいてくれた通知表を全部見たのですが、ほとんどの通知表に書いてあってビックリしました、笑。これは、中学生になったら、「ケアレスミスに注意しましょう」、に変わります、苦笑)

学校の授業には普通についていっていましたが、ボーッと自分の世界に入って楽しんでいたことが多かったのかもしれません。窓の外の鳩を見て物語作ったり、校門から馬車に乗ったお姫様と王子様がやってくるのを想像したり、笑。

一方、先生からはしっかり者扱いで、おもらし君の隣の席でお世話を任されたり、登校拒否の子の送り迎えを任されていました。

工作は、糊が乾くのが待てずに汚くしてしまうのが常で、嫌いでしたが、絵画は好きで賞状もよく貰っていました。自宅では、「美術」という百科事典の巻をよく眺めていて、ルノアールの世界に憧れたり、ダリの絵の中に迷い込んだり。また、線画の技法やデッサン技法のページを見て、ボールペンや鉛筆で、真似したりもしていました。

それはそれは暇な小学生だったので、放課後は、雑草生え放題の裏の空き地で、虫と戯れたり、観察したり、捕獲したり、草や実を潰して顔料つくったり、とても充実した時間でした。??

室内では、自作のゲームおもちゃを磁石や厚紙、輪ゴムなどで作るのも好きでした。大勢で遊ぶおもちゃではなく、一人遊び用のものです。砂鉄遊びも地味に好きでした。ほんと暇で、なんでもマイペースにできて幸せでした。

近所の友達とも遊んでいましたが、一人でこうやって遊ぶ時間がたっぷりありました。自分にとってこのような時間がとても大切で、成長に欠かせなかった気がするので、できればミチにもこういった暇な低学年時代を過ごさせてあげたいなと思っています。

ピアノは3歳からやっていましたが、引っ越しが多くて、先生が替わりすぎました…。この頃は、レコードのピアノの音と、自分の出す音が同じ楽器の音と思えないほど違っていて、どうしたら、綺麗な音が出せるのか分からず、やる気をなくし始めていました。練習曲は嫌いでしたが、ソルフェージュは、まあ好きで、和音も好きでした。

あと、ギフカテでよく出る話題の自転車。あまりにも、補助なしで乗れるようにならない私に業を煮やして、両親が特訓をしてくれたのが、3年生の夏。号泣特訓となりました。過酷でした~。

記憶にある中で、本を読んで泣いた一番古い記憶がこの頃で、泣いた本が「人魚姫」です。「王子を助け、なおかつ声を失ってまで人間になったのに、何て仕打ちなんだ!」という、怒りの号泣です。(子供時代は、本当に悲しくて泣くというのはあまりなく、悔しさ、怒りで泣くのがほとんど。もらい泣きもなかったです。クラスでもらい泣きをする子を見て不思議に思っていました。)

学科では、国語が苦手でした。作者の気持ちや、登場人物の気持ちを問う問題が苦手だったのです。先生に、「作者に聞いて見ないとわからないと思います!」と、発言したこともあるし、テストの解答欄にも「作者に聞かないと分からないけれども」と添え書きした記憶があります。(自分の答えが選択肢になかった時には、テスト問題の選択肢が間違っていると思っていました。)

それと、行間を読むとか、文章中の…… は何を表すかというのも苦手でした。詩のテスト嫌いでしたが、書くのは好きでした。あと、読書感想文は、何で書かせるのかその意味が分からず嫌いで苦手でした〜。国語のテスト問題には、不満たっぷりの小学生でした。


そういえば、母に叱られていた記憶はあまりありません。たぶん、そこそこ満足して幸せ過ごしていたんだと思います。

今回書きながら、家族でドライブしている車内で、キャンディーズ解散コンサートのラジオ放送を聞いていたのを思い出しました!どんどん土地開発をして、分譲宅地ができていったことも思い出しました。規則的に点滅するそごうのネオンも思い出しました。未来に希望がある時代だった気がします。そんな時代に子供でいられたのは、幸せなことなんでしょうね、きっと。

経済や地球環境の変化から、悲観的になりやすい現代ですが、ミチには、未来に希望を感じる子供時代が過ごせるよう積極的に親業をしていきたいと、今回のブログを書きながら思ったのでした。


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by Michi-mama3 | 2013-10-13 23:17 | 自己紹介

今回は、自分の幼少期を振り返ってみようと思います。

3歳までの記憶では、自分が何かをしているという記憶はなくて、父や母の家事を見ていたその風景や、家の中の風景、近所の子供たちを眺めていたということを思い出せる程度です。また、人見知りが強く、親戚から、「抱かせてくれないから可愛くない」と、いうようなことを言われているのも覚えています。

母から聞くには、大人みたいな表情をする子だと、祖母や親戚から言われていたそうです。
私もなんとなく覚えていて、自分はいわゆる子供らしい天真爛漫さがないから、大人から見てあまり可愛くないのだろうと、思っていました。

幼稚園に上がってからも、同じように、大人の期待する子供の可愛さが自分にはないような気がしていました。実際、愛嬌があり活発な子供の方が先生に手をかけてもらっていることに気づいていて、そのことをなんとなく羨ましい気持ちで眺めていたのも覚えています。

運動会やお遊戯会の写真が残っていますが、私は頑張って参加していたつもりですが、どの写真にも突っ立っているだけのように見えなくもない私が写っています、苦笑。おそらく周りを観察していたり、ボーッとしていたんだと思います。

そして、知的に賢かったというエピソードは一つもなく、言葉がちょっとだけ早かったことは聞いています。そして、話し始めたらほとんどいきなり文章だったと。これはミチと似ています。自分の記憶では、3歳のころ母が新聞を読んでいる脇で見出しのひらがなを読んでいたのを母との時間の良い思い出として覚えています。


癇癪や感受性については、ミチほど激しくなかったはずです(たぶん)。親の話によると、 とにかく寝ぐずりがひどかったこと、負けず嫌いだったこと、ああ言えばこう言うので可愛げがなかったこと、などなど。こういった疳の虫系の話は、親戚からも聞かされています。(宇津救命丸を飲ませたが効き目なかったとか、苦笑)

転べば石に怒り、帽子が飛べば風に悪態をつき、ゲームに負ければそのゲームは嫌いだと言っていました。私もこういう態度をとっていたことは良く覚えています。母は、矯正しようとやっきになっていましたが逆効果で、私は、ああ言えばこう言う能力を高めていっていました、苦笑。

母からみれば、「叱っても聞かない子」ではありましたが、幼稚園では、ボーッとしている時間がほとんどでした。ストーブの前でずっとボーッとしていて、制服のスモッグの背中が大きく焦げても気づかず、先生が「ミチヨちゃん、大変!」と騒いでいたのを覚えています。

そして、皆でものを取り合うというか、人がワッといる中に入って行くのは、自分の美学に反している、という考えを持っていて、それにもかかわらず、母が「ほら、早くあなたも入っていかないと欲しいものがとって来れないわよ。」と、けしかけられるのが嫌だったのもよく覚えています。


また、この頃から運動音痴は自覚していて、お正月の羽子板が上手くできなかったこと、ジャングルジムは一番下の段で満足していたこと、走ればよく転んだこと、三輪車すらうまく乗りこなせていなかったことを覚えています。笑

絵画は、放課後のお絵描きクラブに通っていた記憶がありますが、好きな絵を描くというより、描く絵に正解があるといった内容で、大人の好む子供らしい絵が評価されると感じていました。どんな絵が正解なのかなあと思って描いてみるのですが、私の絵が評価されることはありませんでした。

鮮明に覚えているのは、「宇宙の絵を描こう!」というお題で、私一人が最後の最後まで、書き始められなかったということです。周りの子供達は大人が好むような賑やかな宇宙人やらUFOをさっさと描いていましたが、「宇宙なんて知らないしなあ、どう描いたらいいか分からない」というのが、私の気持ちでした。

最終的に、先生からせっつくように、「宇宙なんだから宇宙人を描いたら?」と言われ、「宇宙人って見たことないから分からない」と、いう私に、「宇宙人はタコみたいな形をしている」という先生(時代ですね、1975年くらいのことです)。

結局、画用紙に水色の線で円を書き、その中に黄色いタコのようなものを一匹描いて終わらせました。で、この絵が、親含め大人に不評で、不条理を感じたものでした。まあ、先生も時間があるのでさっさと描き上げさせたかったのだろうと今では分かりますが〜。


思いつくままにダラダラっと書いてみましたが、他の子と積極的に交わろうとするよりも、周りを観察している方が多いというのは、ミチを見て心配していましたが、思い起こせば自分はミチ以上にその傾向が強かったなあと。

それと、ここのところ、叱っても叱っても叱っても叱っても、きかないミチに、かなりイライラしていましたが、これも順繰りだと思えば、“多少” 気も休まりそうです。負けず嫌いが過ぎる親子なんだなあ、きっと。


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by Michi-mama3 | 2013-10-11 09:39 | 自己紹介
あーちゃんママさんブログで「ギフテッドアダルトの特徴 Part 2」(知的面以外での特徴)を読んで、面白いほど自分に当てはまっていて感動。(なんか理解者ができたような嬉しい感動です、笑)

知的面では当てはまらないので、自分がギフテッドなのかどうか確定できませんが、理解者ができたような嬉しさで、あれやこれや自分の辿ってきた道について思い出しました。あまりにもたくさんのことが頭に浮かんできたので、文字にして整理してみようと、自分のこともこのブログで書いてみようと思います。


まず、今回は、両親について。

父は定年直前に他界しています。早くに亡くなったのは、私は、彼の負けず嫌いが過ぎたからだと思っています。大手企業でかなりのポジションまで登りつめましたが、父の経歴では異例の出世でした。亡くなる前も、病床では、定年後の独立にむけて、複数の人とやり取り。その事業内容は、社会奉仕的で正義感からきたものでもありましたが、負けず嫌いからきていたエネルギーもあったと思います。

父と同じ業界の友人から聞いたところによると、父が勤めていた企業は、二つの大きな派閥があり、友人の言葉を借りると、エリート派と野武士派とがあるそうです。明らかに父は野武士派だったのですが、父の葬儀の時には、エリート派が天下をとった直後だったので、お手伝いにきてくださった会社の方々も、ちょっと気まずそうな雰囲気はありました。それだけ、父はアクが強かったんだと思います。

そんな父ですが、なぜ野武士派かというと、大学は名は知れていますが中堅どころです。高校は地元で一番優秀な学校ですが、大学受験では力を発揮していません。浪人時代、東京に出てきたのが嬉しくて、勉強せずに遊び呆けていたと聞いています。卒業後、就職したところは家族の目が届く中堅企業。親族がいるのが嫌で、転職して入ったのが、亡くなるまで勤めた会社です。
中堅大学卒の転職組ということで、エリート派ではなく、野武士派。もちろん、野武士派にも、履歴書的にエリートな人はいたそうですが。

派閥争い、成績競争のある企業だったので、負けず嫌いを存分に発揮して、登りつめたのだろうなというのは、容易に想像ができます。ちなみに、私は父に似ています。特に社会に出てから、似ているのを実感しています。そして、母の話では、ミチの癇癪、周りの状況に気を張って隙のない様子などは、父と私にそっくりだそうです。

そんな父ですが、たぶん祖母に似ているんだと思います。祖母は思い立ったら情熱的に動き、自分の意思を通す人だったそうです。祖父が早くに亡くなったので、経済的に苦労しているのですが、愛情深い反面、アクも強く、戦後食糧不足のころ、成績の良い子から食べさせていたというエピソードはよく聞かされています。

また、父は、派閥争いの激しい中にいて、高度な社交が必要でしたが、おそらく内向型だったのだと思います。夜寝る前、休日は、SF小説、歴史小説を読んで自分の世界に入っていました。そうしないと、仕事の考えが巡って眠れなかったんだと思います。(私がそうなので)

そして、父の姉は、自分と父のことを、「人には見えないものが見えるの。見えすぎちゃうのよね。それで疲れるの。」と、私の母によく言っていたそうです。
それを受けて、母は私(ここではミチヨとします)に「ミチヨはかわいそうよね~、お父さんと似て、見えないものが見えるのよ。線が細いから心配だわ~。」と、人ごとのように言います。
そこで、私は「見えない人の気がしれないし、見えない人がいることのほうが私には迷惑なんだよね。」と言うと、「お父さんと、同じこと言ってるわね、ホホホ」と。(私は何の結論も解決もない母との会話に毎度イラッとするのですが。)

父は、内向型だけれども、“見える” ことを特技とし、派閥争いの高度な社交をサーフィンのように行っていたんだと思います。でも、心身ともに負担があったのだろうなとも思います。

父の“極度な負けず嫌い”、“見える” に加えて、もう一つ。“嫌なものは嫌なんじゃ”というのがあります。転職前、向いていない配属で、本当に病気になったくらい、嫌なものは嫌というところがあったそう、私も同じようなところがあるので、病気になってしまうのは、心の底から理解できます、笑。


こんな父に対して、母は、凸凹激しい私の凹を矯正するのが、母の務めとばかりに張り切っていた、常識人間です。私への小言は、「それが常識なんだから」というものが多いです。母はまだ生きていますので、小言は時々現在進行形でもあります。

母は、中学から地元で名門の私立に行かせてもらっていた割に、根っからの勉強嫌いのため誰でも入れる短大に通った落ちこぼれです。ただ、その名門私立での同級同窓生が政治家、官僚などと、新聞テレビでお見かけする方が多く活躍しており、そういう環境で育ったせいか、思考回路はお堅い常識人です。

また、高度経済成長を享受した世代だからか分かりませんが、危機感がなくお気楽で、私に向かって、「ミチヨは目標を定めてそこに向かうのが好きなのねえ。なんでもケセラセラ、なるようになるんだから、そんなに頑張らなくてもいいのに〜♪」と言っていました。私としては、頑張っているところに水を差された気がし、かなり不愉快で、その後、母と、“生き方について”の議論に毎度発展したものでした。

母についてそれほど語ることはない気もするし、キリがないほどに細々とある気もしますが、基本私と合いません。私がイラっとするんですね〜。

母の“お堅い常識”と“がんばらなくても良い”というメッセージが、私にとってよく作用したのか、悪く作用したのか何とも言えません。その矯正のおかげで、目上のお堅い常識人に気に入ってもらえるし(ただ心地悪いので早く離席したいと思ったり)、年頃には男性から好かれることもまあまああった(初対面の印象で好かれるだけなので、開けてビックリ状態で、気は合わない)のだと思います。

ただ、自分で自分の好きな仕事を作り出しそこそこやってみて今思うのは、私はもっと振り切れていた方が、私生活でも仕事でもハッピーだったのではないかということです。正直、あまり常識をたたきこまれたくなかったし、がんばりエンジンがフル稼働できるメッセージを吹き込んでほしかったなあ〜とも思うのです。(同性だからか、つい母に厳しくなっちゃいますねえ)


次回は、自分の幼少期から振り返ってみようと思います。ミチと重なる様子があるかなあと思います??

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by Michi-mama3 | 2013-10-06 00:36 | 自己紹介

はじめまして

現在2歳、2010年11月生まれの息子がいます。
完璧主義、スプーンの練習を避ける(どうも失敗したくないらしい)、好奇心あり過ぎて玄関からマンション敷地にある距離にして約100mの駐車場までも30分かかる…。

一番???なのは、意外なポイントで悲しくなるのか、泣き出すこと。ドラマチックすぎて、一緒にいて大変です。感情のジェットコースターとでもいうのでしょうか。

その他にも、乳児の頃から敏感で、いつも周りに気を張っている印象で、1歳すぎる頃には、ショッピングを諦め、電話パソコンも夫がいるときだけ(泣き出し大変)と、「わたしゃこの子の奴隷だな、こりゃ」と、仕事復帰もあきらめました。

こんな感じで、なかなか育てにくく、発達障害か?とも思い調べたり、支援センターの予約もとったりもしました。しかし、最近になって、体験教室のようなところに行った際、まあ心配し過ぎかな?と思い、支援センターの相談予約をキャンセルしてしまいました。

言葉だけは、そこそこ早い方で1歳半になるまでには、助詞はないけれども、2語文を話し、ボキャブラリーも100くらいはあったと思います。。2歳半の今は、接続語を使った2文節を彼なりにお試し中で、そこそこ複雑な文章をしゃべっています。

まあ起きている間はしゃべり続けていて、私に話しかけてきてばかり。疲れます、笑。ちょっと静かだなと思えば、パズルや見たて遊び。それでもその間中、あれやこれやしゃべり続けています。仲良しの犬のぬいぐるみとおしゃべりしたりしている様子は可愛らしいです。

色々気になることが他にもあるのですが、ネットで調べた限りでは、ギフテッドのOEが一番ピンときたのと、ギフテッドの幼児期の特徴というのが、一番あてはまっているように思ったので、こらからも色々調べてメモしておこうと思いました。

ギフテッドについては、日本語だけで情報を探すよりも、英語で探した方が良いと気づきました。がしかし、私のレベルの英語だと、理解し間違えることもあるし、日本語でノートしておかないと、記憶にのこらないので、文章にしておこうと思いました。

そして、流れるように過ぎていく子育てで、息子について気づいたことをメモしておいたほうが、後々自分で検証したり、誰かに相談することになったとき役立つかなと思い、息子の成長や気になることもこのブログに残しておこうと思います。

子育てに関しては、ただ単に、私が心配性だったり、面倒臭がりなだけかもしれませんが、難しい息子のおかげで知ることができたギフテッドについては、しばらく色々調べてみたいと思います。(英語を読むのが得意ではないので、スローペースかつ誤訳もあるとは思うのですが)

どうぞよろしくお願いします。

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by Michi-mama3 | 2013-04-26 23:26 | 自己紹介